横須賀軍港の廃線跡・追補<下>

 『横須賀軍港の廃線跡<下>』(2017年03月20日公開)で紹介した、田浦駅周辺の貨物専用線に関する補足です。が、その前Iに、前回の横須賀基地の構内線について付け足しがあります。

 以前から、気が向いたときにこの線路について調べていたのですが、国土地理院のサイトからダウンロードした空中写真の画像や、昔の地図を参考に描いた路線図などが、未整理のまま放置されていました。それらの資料も利用して、前回の記事をまとめればよかったのですが、今頃思い出したので、ここで公開します。すみません、要領が悪くて・・・。

 下図は、国土地理院の旧1万地形図(測量年1950(昭和25)年、発行年1954年(昭和29)年)を参考に、描いたものです。前回の記事で1950年頃の構内線として掲載した図にある、小海岸壁の内陸側に分岐している線路などが、この地図には描かれていません。省略したのか、既に撤去されていたのか、詳細は不明です。
b_200527a.png

 前回の記事にも記した通り、横須賀駅と6号ドック付近を結ぶ貨物列車の運行が1955(昭和30)年頃まで続いていたようですが、上図に描かれている線路が、当時使用可能な状態で残っていた部分だったのではないかと思います。旧正門と小海の区間が複線だったことを示唆する資料などもありますが、判然としません。小海と6号ドックの間には、トンネルが2か所あります。横須賀駅から6号ドックまでの路線の延長は、3Km弱です。

 つづいて、空中写真で横須賀駅から第2船台跡までの廃線を確認します。この区間は、断続的に撤去されつつも、平成まで線路が残存していた部分です。私が子供の頃(1970年代)は、今にも貨物列車がやって来そうな、現役感が漂っていました。
※掲載した画像は、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」にてダウンロードした空中写真(1977年12月26日撮影)を加工(トリミング等)したものです。
b_200527m.jpg
 横須賀駅構内から分岐する部分。左下の駅構内の岸壁寄から臨海公園に沿って線路が続いています。
b_200527j.jpg
 臨海公園と道路の間に線路が続いています。線路沿いの並木が点々連なっています。
b_200527k.jpg
 左下から基地方向(右上)にカーブして工場内を通り、第2船台の延長部分に達する線路が確認できます。
b_200527l.jpg
 その後、国道16号と横浜横須賀道路を結ぶ本町山中有料道路が開通し、船台跡地にはショッパーズプラザ横須賀(現・ コースカ ベイサイド ストアーズ)が建ち、臨海公園は整備されヴェルニー公園として生まれ変わり、周辺の景観は一変しました。現在、この線路の痕跡は何も残っていません。横須賀基地の構内線に関する追記は以上です。

 つづいて、本題の『横須賀軍港の廃線跡<下>』(2017年03月20日公開)についての補足記事です。田浦駅周辺の貨物専用線の変遷など簡単に記し、以前公開したものより少し前に撮影した写真を、公開します。

■田浦駅と長浦港貨物専用線
 1904(明治37)年に、横須賀線の逗子停車場と横須賀停車場の間の長浦港に面した地点に、田浦停車場が開業しました。長浦港一帯は、横須賀海軍工廠軍需部長浦倉庫や水雷学校、火工工場など海軍関連の施設が次々と建設され、昭和にかけて海軍の要衝として発展を遂げます。

 貨物線もそれにともない整備されたものでしょう。1921(大正10)年の地図では、田浦駅と岸壁を結ぶ線路と、岸壁沿いの線路が確認できます。1950(昭和25)年の地図では、港湾部ほぼ全域に張り巡らされた線路が確認できます。グレーで示した(A)(B)の部分は、正確な時期は判然としませんが、1950~60年代に撤去され、その後(C)のスイッチバックの線路が設置されたようです。
b_200527b.png
 1990年代に入っても、飼料輸送や米軍のジェット燃料輸送が行われていたようですが、1998(平成10)年より使用を中止したようです。茶色で示した、七釜トンネルから新井掘割水路に面した米軍施設までの線路が、米軍ジェット燃料輸送で最後まで使用されていた部分です。

 上図の範囲の、1980年代の空中写真。線路はわかり辛いのですが、戦前の倉庫(現・相模運輸倉庫)が密集する長浦港の雰囲気がわかるのではないでしょうか。
※国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」にてダウンロードした空中写真(1983年5月18日撮影)を加工(トリミング等)したものです。
b_200527p.jpg
■案内板に見る貨物線
 田浦駅改札前の案内板(2017年撮影)に描かれた貨物線。上の地図を右に90度回転させた向きです。岸壁部分の線路は、他の部分より早めに使われなくなったようで、描かれていません。
b_200527n.jpg
 田浦駅前(北口)の相模運輸倉庫の看板(2017年撮影)。米軍のジェット燃料輸送で使用されていた線路のみ描かれています。B号倉庫、C号倉庫は2018(平成30)年7月の火事で全焼し、現存しません。A号倉庫も解体済みです。倉庫群も、歯抜け状態になりつつあります。
b_200527o.jpg
■1998(平成10)年12月の散策
 昔の写真を整理していたら、1998年12月6日に撮影した写真が出てきたので公開します。ひたすら線路ばかり撮っていますね。撮影場所は、上地図の①~④です。

 田浦駅北口近くのF倉庫前から西向きに線路が2線に分岐して、海上自衛隊艦船補給所のゲート前に至る部分です(①)。この線路は、たぶん現存しています。
b_200527a.jpg

 吾妻橋(②)。このガーダー橋は2010年代に撤去されました。
b_200527b.jpg

 有名な平面クロス(③)。このクロスは保存され、今でも見ることができます。下写真の左右を結ぶ線路は、米軍のジェット燃料輸送で使用された線路。
b_200527c.jpg
b_200527d.jpg
b_200527e.jpg
b_200527f.jpg
b_200527g.jpg

 比与宇トンネル(④)。かつての循環線の一部が、トンネル内にスイッチバックの線路として残りましたが、この撮影時は埋められていたような気がします。
b_200527h.jpg

b_200527i.jpg
 この一帯は、1980年代にもたびたび訪れ、今は立ち入りができない長浦港内なども随分と散策したものですが、残念ながらほとんど写真を撮っておらず、いまさらながら悔やまれるところです。

 地元(横須賀、逗子あたり)の軍事施設の遺構には興味があり、気が向くと資料を物色したり、現地に出向いたりするのですが、体系的に調べているわけでもなく、それほど熱心でもないので、知見は深まらず、断片的な資料が散らかるばかりです。そんなわけで、まとまりのないレポートになってしまいますが、私自身のあたまの中を整理するためにも、ときどきこんなテーマで記事を書いてみたいと思います。

<参考文献>
『横須賀線を訪ねる 120年の歴史』 蟹江康光 交通新聞社 2010年
『横須賀海軍工廠外史』 横須賀海軍工廠会 1991年

おわり

この記事へのコメント

01175
2020年11月28日 01:48
大戦時に米軍が作成した地図がありますのでお知らせしておきます。京急を3’6”と誤認しているのが面白いです。6号ドックに行く線は1959年頃までB20が、ディーゼルは1970年代の初めころまでDD11,DD12,DD13が入っていました。

http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-20.jpg
桜山軽便
2020年11月28日 10:00
01175さんこんにちは。
貴重な情報ありがとうございます。
横須賀基地内、長浦港周辺の線路の状況がよくわかり、また吾妻島の線路なども新発見で、非常に興味深いものです。
01175
2020年11月28日 14:42
こちらがURAGAになります。

http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-21.jpg

京急を3’6”と誤認する一方、横須賀線の延伸部分が標準軌になっています。久里浜のフェリー乗り場付近にあった魚雷桟橋のあたりまで線路があるのがわかります。まさにワキ700が活躍していたのでしょうね。

6号ドック建設時には標準軌が採用されていたらしく、海兵団を写した絵葉書にも明らかに標準軌が写り込んでいるので米軍側にも混乱があったようです。最初は平作川の東岸にあった京急久里浜が西岸の今の位置にあるのでデータを撮影した年代は敗戦近くだったようです。
2020年11月29日 09:49
いずれの地図も興味深いもので、時間を忘れて見入ってしまいます。
久里浜駅から魚雷桟橋への引き込み線は知りませんでした。
そうですね。ワキ700が活躍していたのでしょう。
現在の地図で廃線跡を見ると、道筋や工場の敷地の境界に面影が残っていますね。遺構はなさそうですが、廃線跡を歩いてみたいと思います。
6号ドック建設時標準軌が採用されていたのも興味深いものです。
01175
2020年11月29日 14:17
横須賀軍港の中の3’6”と標準軌の「折り合い」は不明です。以下は軍港の中で使用されていた標準軌の機関車です。

http://www.gearedsteam.com/shay/images_t.htm

42"(=3’6”)となっていますがカタログ写真の記載にある標準軌が正しいそうです。「呉鎮のシェイ」として有名な機関車ですが、もともとは横須賀にあったもののようです。Takataとあるのは東大タレントの高田万由子の家である大貿易商、高田商会です。

逗子方面は「池子弾薬庫跡」だった時代に入ったことがあるのですが、ここも線路の敷設状況がすさまじいものでした。3'6"で入るのですが、さらに狭いものが2種類あって最狭のものは人力トロッコ用だったようです。谷戸ごとに張り巡らされ、マニアが見たら狂気乱舞の世界だったと思います。当時、私は鉄分が完全に抜けきっていた時期だったので写真も記録もとらなかったのが惜しまれます。我々は許可をとって入っていたのですが、通学らしい女子中学生が自転車で中を通過したりホームレスが寝泊まりした痕跡があったりしたので地元の人には知られている抜け道があったようです。入って写真撮影をした方がいれば有難いのですが。
桜山軽便
2020年11月29日 19:52
呉鎮の42トンシェイが、横須賀で使われていたものというのは興味深いですね。知りませんでした。
池子弾薬庫跡の引き込み線をご覧になったことがあるのですね。非常にうらやましいです。
現在は久木地区にわずかに線路が残っていますが、弾薬庫時代の資料は少なく、当時の状況をなかなか知ることができず、もどかしい思いです。
子供の頃、弾薬庫跡地周辺の湿地帯や里山で遊んだことがありますが、抜け道はあったような記憶があります。